死の縁に遭って、仏縁に会う
先日の法事での話:
お亡くなりになられたご主人様の1周忌でのこと。
家族・親族様が御参集。
一同でお経を読み上げ、お焼香もし、御文章拝読に、法話をいう流れ。
法話のときには:
お釈迦様の言葉「人間生まれたときには十分に歳をとっている」とお話させていただきました。 キサゴタミの赤ちゃんの死、また100歳まで長生きする老人。
しかし、どれだけ長生きしても必ず人間はいつかは死ぬ身:
故にお釈迦様の言葉が身にしみる。
如何に我々は生きるべきかと言うこと。
できるだけ善行を積むこと。残されたものは先に行くものの善行に導かれる。
今の私があるのは仏様(ご先祖様)のお導き:この命を大切にしたいものである。 と言う風に法話を続けた。 法話も終わり、お亡くなりになられたご主人様にお礼を申し上げ、合掌礼拝。
その後、お茶をいただき参拝者の皆様とお話:
そこでのこと。
私は20年前に息子を亡くしました。そのときに「法話なんてお坊さんの話されることが嘘に聞こえた。信用できない」と。 しかし、浄土真宗の教えに出会ってから聴聞し始めました、と。 今では、「亡き息子は私に法に遭わせるが為に先に逝ったのだ」と。「息子の死の縁があって初めて仏縁に遭えた歓びを得ました。おかげで今はありがたいと思える人生を歩んでいます。」と。
「死の縁により仏縁に遭う(紙を通して生きる意味に出会う)」なんとありがたいことか。
合掌、
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