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仏道の精神! 忘れたらあかん!!

お坊さんを行じていると、考え方や言動が変わってくるのを最近特に感じる。先日30年ぶりに会う同級生もいる中での恩師を迎えて同窓会が行われた。高校生時代の話であるが、先生はじめみんなによく迷惑をかけたものだ。その友人たちが立派な社会人になられて高校当時の話で盛り上がった。私は日本を離れて20年近くになるが、考え方もアメリカ人的思考(言動)になっている。久し振りに友人に会うと言動に戸惑う時もある。この考えやこの話し方は日本には受け入れられないんやと。気を使うのに疲れる。言えることが言えない。表と裏がある。その場ではっきりものが言えない。

お坊さんの世界でも傾聴が言われる。話を聞く。聞きかたにもよるが、しんどい。話し方も、これではダメ!、こう言うべきだとか。マニュアル化されている。勉強にはなるが、ある種恐ろしい気もする。アメリカ人も人の言葉に耳を傾けることはあるが、アドバイスを求めてくる。それに的確に答える。それをアメリカ人は望む。間違えれば正し、そして常に向上していく。なので常に前向きだ。日本は日本人は枠にはめて窮屈である。帰国して5年になるがまだ日本社会に慣れない。

お坊さんを行じているとであるが、当然であるが世俗の考え方と異なる。ただ生活は一緒だ。日本では肉食妻帯。みなさんと同じ生活をする。その中で仏道を行じるのである。お坊さんは何か特別な存在でもない。ただ生き方や考え方が少しみなさんと違うのである。仏道、縁起・無常・涅槃・煩悩などという言葉がお坊さんの生きる指針となる。誰も耳を傾けないであろう言葉である。お坊さんはそこを注視するのだ。そして悟りの世界へと歩み、導かれるのである。それを一切衆生とともに歩んでいきたいと願うのがお坊さんである。

同窓会も昔話だけで終始してしまうのであれば、過去に執着する輩(煩悩具足の凡夫)である。それを菩薩の精神に立ち返って前に向かっていかねば意味がないのである。話の中で南無阿弥陀仏の念仏の精神が聞こえてくるかどうかだ。私はまだまだ精進が必要だ。念仏の声が笑い話の中でも聞こえてこなければ意味がない。たとえ、他人から煙たがられても。そこを大事にしたい、お坊さんとして。合掌、南無阿弥陀仏

同窓会 般若泡

仏道

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