子供を見守り、子供に教えられ
寺子屋英語教室を始めて5年になる。今年の春から3歳児を預かって寺子屋を開催している。「3歳児ですけど3歳児も英語学べませんか?」という声が上がってきてのことである。保護者の方には、「流石に子供は長い時間座れることができないので、保護者の方同伴でお願いします。」と伝え、親子で楽しみながら英語クラスを進めています。鉛筆を持って書くということが初めての子供ですので、親に手伝ってもらいながら。 中には授業中立ち回る子供もいます。 泣き叫ぶ子供もいます。
我々大人は我慢強く見守り続けるのである。たとえ上手く書けなくても、たとえ上手に喋れなくても、たとえ先生の親の言うことが聞けなくても、…。
聞けない座れない子供がいればクラス(授業)を進行し難いことがあるが、時には注意したりする。また時には無視することもある。どのように1時間クラスを無事に終えることができるか、それだけを考えながら試行錯誤する。
子供が、今何をするのか? しているのか? すべきなのか?を 保護者にサポートをしてもらいながら学び続けること。この小さい子供を預かって、このお寺の環境の中でわずかな時間を子供と共有すること。1年後が楽しみである。成長が楽しみである。
その中、ある出来事が起こった。英語教室を休校にするお知らせを保護者の方にお伝えした。全員に連絡が行き届いていると思っていたのだが、クラスがあると思った保護者と子供(5歳児)がお寺に来られた。
私はお寺のお勤めで外出中。お寺には誰もいなく、教室の部屋も閉めていた。その中、その子供はお母さんに車で連れられてお寺の門の前で降ろされた。そのあと、お母さんが去ってしまったのである。
その子供は、泣きながら、お寺の周りを行ったり来たり。その時、農作業していた近所のご婦人が「この子どうしたのだろう?」と声をかけてくださった。そのご婦人は元教師。すぐに察してくれて、子供が英語教室に通っていることを読み取って下さった。そして電話くださったのである。私もすぐに帰ってきて、子供が無事に保護されているのを確認した。時間が来てお母様もいらして、私はお母様に注意させていただいた。
今回のこの件に対して保護者全員にメールでお伝えした。「… 子供が無事に保護されて安心しましたが、寺子屋英語教室は塾ではありません。」と。そして「車で送迎して、お寺の前で子供を降ろしてそのまま去っていくのはやめてください。」と。「保護者の方は顔を出して下さい」とお願いした。お寺で学んで「挨拶」もできない保護者と子供はどうかと思うのである。個人個人の事情があるとはいえ、お寺は大切なお子さんを預かっているのである。
あらためて「いのち」の大切さを学んだのである。保護されたお母さんからメールをいただいた。「ありがとうございます。当たり前にならぬよう感謝を忘れずに、共に学んでいきたいとおもいます。」と。お母様は子育てに家事に仕事にと忙しい日々を過ごされていることは重々承知しております。どうぞ忙しいという思いから「心を置き忘れ(忙しい)」ないようにしてください。私も一親として自戒して皆さんと共に学んでいきたいものである。合掌、
PS. 今回のブログを書くことにご理解くださったお母様に感謝申し上げます。
また、私人身の怖い思い出がある。小学生の時、夏休みのプールの時間に学校に歩いて登校しているときに後ろから車が来て、去り際に運転手が私の腕を掴んで離そうとしなかった。私は振り切って田んぼの畦道を走って逃げたのを覚えている。今から40年前の話である。その時の経験が重なって今回の事に何かしらの恐怖を思い出したのである。