思いやりの心② ~お盆に際して~
「罪業は深重なりとも、阿弥陀如来はすくいましますべし」と言う言葉がある。我々人間は罪深い生き物であるけれども、省みる心があるのであれば仏様はすくってくれるのですよとある。省みる心が大切である。我々は生きて行く上において殺生を行なっている。生き物のいのちの上に成り立っている人間。他の(動物の・人間の)いのち、物の大切さ、思いやりの心を学ばなければならない。
そこで大事な心が「思いやりの心」(compassion)である。お盆に際してこの思いやりの心に学ぶところがある。お釈迦様とそのお弟子である目連尊者(目連さん)の話である。
今から2500年以上前のインド、当時お釈迦様が仏教の布教に勤めていた時、お釈迦様の弟子である目連さんが、夏のお盆の時期に若くして亡くしたお母さんを見たいということで神通力を使ってお母さんがいらっしゃる仏国土(仏様の国・世界、お浄土)を見ようとした。目連さんはその仏国土を見渡してもどこにもお母さんはいない。なぜなのか?と目連さんは思った。まさか地獄に堕ちているのではと思って地獄を見渡してみた。様々な地獄をみると、餓鬼道という地獄を見た。そこは餓えに苦しんでいる世界である。食べ物や飲み物がない苦しみの世界である。目連さんのお母さんはそこに堕ちていたのである。目連さんは思った。「なぜ、あんなに優しかったお母さんが地獄に堕ちているのか?!」「私にたくさんの愛情を注いでくれた方なのになぜ?」と思い、その理由をお釈迦様に尋ねてみた。お釈迦様は「目連よ。お前の母親は生前大きな罪を一つ犯したのだ」と言う。「それは何ですか?」と目連さん。目連さんのお母さんは生活用水を汲みに井戸に向かいました。タライに水を汲み頭に乗せて帰宅中に、道の傍らで横たわっている子供がいました。子供はみすぼらしい格好でしかも痩せており食事も飲み物も摂っていなかったのである。そこで通りかかった目連さんのお母さん。子供は声を振り絞って「喉が乾いています。どうか、そのお水を分けてくれないでしょうか?」とお願いすると、お母さんは「このお水は私の息子、目連に飲ませてあげるお水。あなたなんかに飲ませる水はないわよ!」と言ってその場を去っていったお母さん。その後、この子供はどうなったかはいうまでもありません。「目連よ。お前の母親は思いやりの心がなかったのだよ。」とお釈迦様は言う。お母さんは我が子目連には愛情を注いで育ててきたのであるが、他の人や物に愛情を思いやりの心を持っていなかったのである。そこで、目連さんはお釈迦様に尋ねました。「どうしたらお母さんを地獄から救ってあげることができるのでしょうか?」と。「目連よ。このお盆の期間にお母さんを供養しなさい。お供え物をして手を合わせるのだ。」とお釈迦様。お盆の期間、目連さんはお母さんの為に供養し、そしてお盆の終わりにはお母さんは無事に仏国土(仏様の国、お浄土)へと帰って行くことができたのである。
私たちが生きて行く上で、このお盆のお話「思いやりの心」がどれだけ大切かと言うことを学ぶことができる。お盆はその機会を得る期間である。今一度ご先祖様に手を合わして今あるいのちに感謝することが大切であるのだ。
合掌、