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思いやりの心

日本に帰国した時しばらく浦島太郎状態であった。僧侶として何か日本社会でできることがないか模索してい時、縁あって「スクールサポーター」として学校でしばらくお世話になった。いわゆる問題校に教員ではない社会人が学校に入って生徒たちを見守るということである。私はある中学校に採用されその職に就いた。生徒による校内暴力、授業妨害、器物破損等、様々な問題を抱えている学校であった。問題を起こす生徒に付きっ切りで1日を終える。この問題も低年齢化が進み、中学1年生入学して1学期ももたずに、授業妨害や暴力などが絶えない日々が続いている。1年生の問題は中学校に入学してからではない。教員の話を伺うと、小学生の時からすでに問題化しているのでる。授業中騒ぐ、座れない、教員に暴力を振るうといったことが小学校の時から行われているのだ。それに問題を起こす生徒の保護者に事情を伝えても改善しない。それに地域性もあり、学校区の地域の支えもないのも問題である。また、先生間のやりとりも気になるところもあった。コミュニケーションだ。

私の地元の小学校の校長先生方にお話を伺ったことがある。その中で興味深い話をしてくださった校長先生がいらした。それは、教員の中でも変化があるという。20代の若い先生と50、60歳代のベテランの先生との間の中間職の先生方(30歳後半から40歳代)がごっそり抜けているということを指摘していた。私もスクールサポーターとして学校にいた頃は、まさしくそのような状態であったことを思い出す。そうすると、先生間同士でもコミュニケーションがとれないことがあると。上下関係が上手く成り立っていないことに気づかされるということだ。

今の時代の若い教員とベテランの教員とでは何が違うのか? まず、学校では許されないことは教員による生徒に対する暴力である。ひと昔前までは、教員は問題のある生徒に手を挙げた。私は問題のある生徒だったので、小学校、中学校、高校と先生から愛の鞭をくらったことがある。当時の先生方は、もう退職されている。今、教員が生徒に手を挙げるととんでもない問題、事件になる。

今、教育現場では手を挙げる先生がいなくなった。教育するのに、親も手を挙げるのは良くない社会である。(アメリカでは、親が子供に手を挙げると子供から訴えられる社会である。)そして、地域社会を見ると叱ってくれる人がいなくなった。近所の方でさえも、隣の子供が悪さしていたら叱るということをしなくなった。誰かが言わなければならないのであるが、言わなくなるような社会になった。自分が巻き込まれるのは嫌だからである。手を挙げることはよくないが、叱ってくれる人がいなくなったのはどうかと思う。

今、世界の仏教の精神はコンパッション(慈悲・思いやり)の精神である。日本仏教はまだそこまで至っていない。というか、すでに日本人の精神文化にはその心が息づいている。それに気づかないでいるのだ。これからの日本社会に他者を思いやる精神をどう繋げていくかが大切である。思いやりは様々だ。叱るということも思いやりの一つだ。

先生と生徒、親と子、夫婦間、世代間というように、思いやりの精神を生かさなければならない。ダライ・ラマもこの思いやりの精神の重要性を解く。他者を思いやれば、自分自身も大切にすることができるということだ。「他者に対する思いやりを持てば持つほど、自身にふりかかる様々な困難も乗り越えていくことができる」と師は言う。「私たちは徐々に、より一層に思いやり深くなれるよう努力することができるのである。つまり、(思いやりは)他者の苦しみに対する真の哀れみとその苦悩を取り除いてあげたいという意思の両方を培ってゆけるのである。」と。  合掌、

思いやり

コンパッション

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