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親の恩

先日、80歳の誕生日を迎えた母親。あらためて母に感謝したい。父を亡くしたのが31年前。私が高校生の時である。それから兄が住職となり、27年間勤め上げた。今は私が住職の座を受け継ぎ、兄は前住職ではあるが引退はしていない。お坊さんに引退はないのである。前住職の兄とともに今は法務(修行)を行っている。そして母は坊守(お寺を影から支えている)さんとして今も現役! 昨年大病したにも関わらず、動ける範囲で法務を行っている。大したものである。先日亡き父の33回法要を無事終えられたのも、母のお陰である。

お寺(淨願寺)の次男坊として生を受け、両親から愛情を受けて成長してきたが、たくさんの迷惑もかけてきた。成人して母の元を離れて開教使として渡米したときには、母は私の姿が見えなくなるまで見送ってくれたのをいまも覚えている。母が私の後ろ姿を見ている(見守っていてくれている)とは思いもよらなかった。皆さん、思い出していただきたい。自身が小学校入学した当時のことを。自分の背中より大きいランドセルを背負って登校する。その時の親の想いは、子供の後ろ姿を見て涙するのである。「行ってきます!」「行ってらっしゃい!」の何気無い言葉の中には、どれだけ親が子に対する思いをかけているのかと。親は、「大丈夫かなあ」「先生の言うこと聞いているかなあ」「授業をしっかり受けているかなあ」「友達と仲良くしているかなあ」と、思っているのである。「行ってらっしゃい!」という親の言葉の中には、親の、子に対する思いが、愛情が、注がれているのである。その親の愛情を子供は知らずして成長していく。

今こうして無事にいられるのは全て親の「恩」(おかげ)に他ならない。物事の分別もつかない子供は、親が頼りである。親が子供を持って初めて「先生」になり、そして子供(「生徒」)は親の背中を見て育つ。親が言うことなすこと全て子供は真似る、コピーするのである。門徒さんのところにお盆まいりをすると、おじいさん、おばあさんは子やお孫さんと一緒にお参りをする。お家の方と話をすると、「孫が家へ来たときには、まず仏さん(仏壇)に手を合わせるんですよ。蝋燭、線香に火をつけて、座布団に座って手を合わせるのですよ。」と。「それはなぜですか? なぜお孫さんが手を合わせるのですか?」と尋ねると、「私がしていることを真似するのですよ。」と。「そうですよね。お孫さんはご主人さん(おじいさん)の背中を見ているのですよね。どうぞ、お孫さんに手を合わせる姿を見せてあげてくださいね。いずれ必ずご主人さんに手を合わせて頭を下げるときがきます。おじいちゃん、ありがとうねと。そして、ご主人さん(おじいさん)が息を引き取ってもお孫さんは、おじいちゃんは私を見守ってくれていると自覚するのですよ。」とお伝えした。「だから先を行くもの(親)は後(子供)を導き、後を行くものは先を敬えと言うのですよ。」と。

最後に、「恩」という言葉だが、恩は上の「因」という字と下の部分の「心」という字で成り立っている。その「因」とは口と大である。口はお布団という意味で、大は赤ちゃんという意味である。お布団の上に赤ちゃんが大の字で寝ているのである。そこにお母さんが赤ちゃんに寄り添って見守っている姿を心で表している。赤ちゃんは100%親に自分の身を委ね、お母さんは優しく赤ちゃんを見守る。赤ちゃんは100%親の恩(愛情)を受けている。赤ちゃんはそれを知らない。成長して行く上で、赤ちゃん(子供)は、親の恩を知っていく。そして子供は、親に「恩返し」をしていくのだ。それが、いのちの繋がりとなっていくのである。  合掌、

親の恩

親の愛情

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