事故に遭った者遭わせた者の見方 〜双方の角度からストレスのない社会へ〜
ストレスについて以前から思うことがあって、誰かに相談したことがある。そもそもストレスという言葉は日本にはなかった。現在当たり前のように使われる言葉であるが、日本人はストレスを抱えて生きてきたのだろうか? 「しんどいわあ~」「あ~、疲れた」という言葉を使ってはいたが、いつの間にかそれがストレスという言葉になり対人関係の悩みから自殺者が増加したりもした。今現在でもストレスを抱えて病んでいる人が多いのは確かだ。 先日、アメリカで僕が看護助手として働いていたときに経験した医療事故について小児科医ママに尋ねてみた。起こした者(病院側)起こされた者(患者側)がどう考え、双方が接しているのかということを聞いてみると興味深かった。 こういう事例である。病院側が注射する薬量の間違いをした。そしてその時「あ、間違えた。でも大丈夫大丈夫。この量であれば心配ないですから。」と患者に伝えた。それを聞いた患者家族は不安になり、帰宅して他の病院に問い合わせたり、家族に相談したりした。完全な医療事故。家族は怒り、その病院に怒鳴りに行った。病院側は医院長はじめ看護婦やスタッフがその事故のことを共有出来ておらず、患者側からの問い合わせで初めて病院側が知ったわけで、その時点で病院側が事故を認め患者に謝罪をしたが、患者側は黙っていない。「どないしてくれんねん!」「おら!」と捲し立ててくる。(半ば恫喝)。病院側は今回の医療事故をこう捉えている。「今回の薬液量間違いで決して患者さんに何か不利益を生じることはないと思われます。」と説明を受けるが、病院側の体制や対応で事故を起こされた側(患者)は許せず、話がややこしくなったのである。 そこで、ママにこの事例のことで何か思うことはある?と聞くと、「医師としてミスは認めて謝罪しているけど、その先生の対応がまずいし、その先生だけで対応して他のスタッフにミスをしたことの共有ができていないことがまずかったと思う。」とのこと。 「でも、もし私の家族が医療ミスを受けてしまった場合、こういう風に怒鳴りに行かずに冷静に話あったほうがいい。紳士的にね−。怒鳴り込んで、いいことなんて全くあらへん」とママ。 そこでパパは、「医師は、その医療行為がミスであっても患者に特に問題が生じるわけではないことを知識から理解できる。それは、100パーセント医師はその医療行為を理解できているから。しかし、患者は、医療の知識もないし、当然医師でもない。100パーセントその医師を信頼して信用して、自分のいのちを医師に預けている。任せている。たとえいのちに別状はないと言われてもミスということに理解できないので、怒る、怒鳴るのは当然だとおもう。そういう人がいても病院側は100パーセント受け入れなければならない。」と反論。
さ~て、お坊さんパパが患者だったら冷静にいられるか?! 無理! この事例の詳細を知っているので「病院側に対して怒鳴り散らすわな」、とママにいうと「やめて~!」「嫌い!」「冷静になってよ~」ですって。お坊さんパパは修行が足らないのか?! いやそういうわけではない! 人間縁に触れると何をするかわからないということを覚ること。それが大事。だから己を振り返るということにつながる。できるだけ冷静にいられるようにしたいが、保証はない。
最後に、今回ストレスということから医療事故の事例について話しているが、私も医療現場にお坊さん、看護助手として携わってきた。患者さんの側に立って寄り添い看護していくのであるが、医療者側の看護も必要に迫られていると感じる。医療現場はいのちを預かっている以上、ストレスは半端ない。アメリカでの経験であるが、ストレスを抱えた医療従事者はチャプレンのオフィスを訪れたり、仏教が教える瞑想(メディテーション)に参加したりしていた。日本でもストレスをできるだけ軽減できる社会にしたいものである。そこで仏教者(お坊さんパパ)や医療従事者(小児科医ママ)の連携が大切になるのである。 合掌、