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当たり前のことができない「挨拶」

「最近の…」という言葉に続くのが、「若者は」とか「年寄りは」と言うことであるが、大人も年寄りも子供も「挨拶」ができにくい社会になっていると思う。何気ないことであるが、道ゆく人に「おはようさん」とか「こんにちは」など、時と場所によって私たちは何らかの挨拶を交わすのであるが…。

仏教では「挨拶」が大切で、挨拶一つ一つが悟りへと導いているのである。もう10年ほど前の話ではあるが、京都駅ですれ違った雲水(禅宗の修行僧)さんとの挨拶を思い出す。その日は、京都でお坊さんとの会合(浄土真宗本願寺派)があったので、自坊(お寺)から布袍・輪袈裟(お坊さんの黒の衣に袈裟)を着用して京都へ電車で出向いた。京都駅に到着して、ホームから改札口に向かう途中に遠くから下駄を履いて走ってくる音がしたので、誰かなと思ったら雲水さんが出発直前の列車に乗ろうとしてたのでしょうか。出発のベルも鳴り始めた。一瞬、近づいてくる雲水さんと私は目が合いました。お互い衣の色は違うし、宗派も違うが頭を丸めた僧侶。雲水さんが私を見て近づいてきて目の前で足を止めて、そしてお互い「合掌」して「頭を垂れる」。周りの雑音、人の気配等全てが消えて、挨拶する二人だけの空間と時間がそこにあった。わずかな時間ではあったが僧侶二人にとっては大切な挨拶の一瞬、瞬間だった。「悟ったのか?悟っているのかどうか?!」の「挨拶」を通してのやりとりである。雲水さんは京都花園の妙心寺(臨済宗)の僧である。立派な僧だ。電車に乗り遅れたのは確かだ。しかし、「今、この瞬間自分にとって大切なことは何か?!」ということをわかっているのである。雲水さんにとって電車に乗り遅れるということは、私と出会ってどうでもよいことである。「挨拶」、それが仏教徒にとってどれだけ大切な意味を成すのかということを雲水さんは悟っているからだ。

話は「最近の…」に戻すが、その最近の若い親御さんは子供に挨拶する姿を見せているのだろうかと思う時がある。子は親の姿を見て育つとは挨拶一つ取ってもそうだ。習い事でも親御さんは子供の送り迎えだけで、子供はクラスが終われば親御さんが子供をひらってそのまま帰っていく。塾などに通わす親御さんの光景はいつもそのようである。お世話になった方に対する挨拶の一言が全くない。「お世話になりました。ありがとうございました。今後もよろしくお願いします。」などの言葉が一つもない親御さんもいるようだ。(仏教では、お世話している者がお礼を求めてはならないのである。無心でお世話をさせていただく。この姿勢が基本!であるが)親御さんは子供を送り迎えするだけで車の中から降りてきて一言お礼を言うこと、挨拶をすることを知らない。子供は無知。何もわからない。親が送り迎えしてくれる。ただそれだけ。子供は親には感謝しているが、親が人にお世話になっていることに感謝していることを子供は見ていないし知らない。

親が頭を下げる、お礼を言う、その姿を見た子供は、必ず親を見習う。必ず人にお世話になったらお礼を言うということを。私も子を持つ親として、きちんと挨拶をできるような子に育てたいし、子供に示していきたい。

挨拶をできない理由もある。それも確かだ。しかし、心持ちが大切。人間関わって生きているのだから。

合掌、

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