愛する人を亡くして家族とともに枕経
48歳のお坊さんパパは、今まで数多くの方々を見送ってきました。 本願寺(浄土真宗本願寺派本山)では、枕経(臨終勤行)のお勤めを家族の方とすることについてこう説明しています。「人生の終わりに臨んで,永年お育てに預かった御本尊(仏壇)に対する御礼の勤行です。 一般的には,枕経と呼ばれていますが,亡くなった方に対して行う勤行ではありません。あくまでご本尊である阿弥陀さまに対して行うお勤めです。」私は枕経をお勤めしてきて今の今まで、いやこれからも”故人様(仏様)の前に座らせていただき故人様に向かって家族の方と一緒に故人様に向かってお参りさせていただきます。ご自宅にお仏壇があってもなくてもです。小児科医ママ(実家は代々続く真言宗の檀家)に質問してみました。「家の人が亡くなって枕経のお勤めするのにどこ向いてお参りする?」と。そうしたら「(亡くなった人の)顔を見てお参りする。」と答えました。「そうやな。顔見るわな。僕もそうやで。家族の人みんなで故人様の方を向いてお礼言うんやで。」と。「枕経をお勤めしますので、合掌しましょう。」と声をかけますと、全員が全員故人様の方を向いて合掌します。浄土真宗の僧侶である私も!します。手を合わすという行為は、家族の方にとっては亡くなった方に対する素直な気持ちです。「今までお世話になりました。ありがとうございました。申し訳ございませんでした。」という気持ちの表れです。その気持ちに反して本願寺は、阿弥陀様(仏様)にお参りをするというのです。確かにそう思う方(阿弥陀様にお参りする方)もいるでしょう。しかし、大多数はママや私のように亡き人(仏様)の顔を見てお礼をするのです。本願寺の何でも阿弥陀様という考えには仏教も浄土真宗も知らない方にとって何にも心の拠り所とはならないと私は思うのです。今目の前で息を引き取った方が全てだと思うのです。そこを無視して「亡くなった方に対して行う勤行ではありません。」と言うのはおかしいと私は思います。もっと、目の前にいる、あること、今行われていることを大切にしないと。お坊さんパパは一人一人と寄り添いながら法を説いていく事にこれからも努めていきます。 合掌、 *枕経(=臨終勤行)は、本来息をひきとる前にご本人と一緒に仏様(お釈迦様や阿弥陀様等)にお礼を申していくお勤めです。現在はその機会も失われ、人が亡くなってから僧侶が呼ばれる事になっています。そして亡くなった方にお礼するように変化してきました。生きているうちにお坊さんにお参りしてもらうのは早いから(まだ死んでいないから)とか、死に対して汚らわしい(忌み嫌う)という風潮もあっての事から死後に枕経をお勤めするようになりました。 *本願寺はよく以下を引用して諭そうとする。『歎異抄』の中に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と言っておられると。父母孝養とは亡き父母への追善供養ということです。亡くなった人のためには手を合わさない、念仏しないと言う。パパは親鸞の言葉を大切にしますが、私自身親鸞信者ではありません。私は、一仏教徒です。亡くなった方(仏様)に手を合わし、念仏称えます。
本願寺が言う枕経の一例
お坊さんパパの枕経一例
お坊さんパパと親族様